慶應大学の先生たちと議論する特番をみた。
そのなかで北海道大学の先生が
「南北問題が、国内の格差問題に置き換わっていく」
という知見を話していて、なるほどなあ、と思った※。
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ある程度勝手に解釈するとこういうことだ。
これまでは国と国の壁は厚く、
人や情報、資金の移動は制限されていた。
なので、先進国と途上国の間の格差は、
すなわちそこに生まれ、住む国民の
生活水準や賃金、能力その他の格差も生んでいた。
しかし、グローバル化が進展し、
交通機関の発達で、人は動ける
金融の発達で、金も動く
英語とインターネットの普及で、学ぶ機会や職業機会が増える
そうなってきて、国と国との格差が縮小、それ以上に、
生まれた国と、個人の機会が疎結合になる。
人は国を越えて競争しなければならなくなる。
ほかの国の安くて性能のよい製品、
優れたコストパフォーマンスの人材、
そういうものと競争することになる。
一方で、同じ国の中でも、
機会を得る人間と得られない人間の差は
逆に開いてしまうかもしれない。
割のいいバイトはもっと優秀で勤勉な外国人に
とられてしまうかもしれないのだから。
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「その競争ってなんだ?」
太田が提起する。
きっとこういうこと。
もし、日本語が現在の英語のような役割を占めていたら、
ある日本人コメディアンは、日本以外の国にも活躍の場
が大きく開け、国内だけを相手にするよりも、圧倒的に
大きな富を得たかもしれない。
逆に、ほかの日本語の国のすばらしいコメディアンも
日本に入ってきて、より広範囲の切磋琢磨が起こる。
それが、現在、英語圏に起こっている変化であり競争だ。
それはほぼすべての職業行為に影響するのではないだろうか。
食っていくためには、競争に勝つか、ニッチを見つけ出さなけれ
ばならない。それが、より難しくなるってことである。
あなたの仕事を、あなたよりも安く正確にすばやくこなす
人材がたくさんいたなら、そっちのほうを雇ったほうが
企業として理にかなっている。
雇う側の担当者も、同じように評価されるので、効率的に
合理的に採用するしかない。
・・・戦う前に勝ってしまっている競争を、人は競争とは考えない。
しかし、勝つのが当然ではなくなったとき、それは競争と認識される。
インドへのアウトソースによって、アメリカ人であれば当然得られた
優位性が失われたとき、それは競争になった。
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自分の世代より、子供たちの世代のほうが、
とても豊かかもしれないが、とても大変だろう。
とても楽しいと思えるかどうかは、その人次第かなぁ・・・。
※村井純先生が何度もうなずいているのが、印象的だった。
いい場所に座っていたから目に付いただけかもしれない。