2025年9月6日、Scrum Fest Mikawa 2025にて「アジャイルを活用したProject-Based Learning (PBL)を通じた新卒研修:技術体験の深化とチーム協力文化の醸成」というタイトルで登壇させていただきました。
発表スライド:
登壇メンバー
今回は5名のアジャイルコーチが集まり、それぞれ異なる視点から新卒研修の実践について語りました。川口恭伸(アギレルゴコンサルティング)、永瀬美穂(アトラクタ)、竹葉美沙(カサレアル)、及部敬雄(ホロラボ)、そして秋元利春(Kumu)という多彩なメンバーで、実際に同じ現場で協働している仲間たちです。
今年度の大きな変化:環境構築デーの導入
私たちは6年間この新卒研修に関わってきましたが、今年度は特に大きな改善を行いました。それが「環境構築デー」の導入です。
発注側になるような大企業の場合、社員が「企画屋」や「手配師」的な役割に留まってしまい、大筋は発注先に任せる、ということが起こりがちです。新人研修においても、デプロイやテストなどの基礎を経験しておかないと、自律的に「企画偏重」に陥ってしまうチームが出ます。アイデアは素晴らしいのですが、いざ実装となると技術的な壁にぶつかってしまう。しかし、賢いので「実装をしなくてもアピールできるプレゼン」を作れてしまう。技術研修ですので、それだと少し寂しいです。そこで今年は2日間をかけて、まず技術的な足場をしっかりと固めることから始めました。
初日は実際の企業環境を模したインフラ構築を体験してもらいます。二日目には、その技術的理解を踏まえて「完成の定義(Definition of Done)」を各チームで策定してもらう。この取り組みにより、夢や妄想だけが膨らんでテストがおざなりになってしまう状況を防ぎ、最初から技術的な品質意識を醸成することができました。
特に印象的だったのは、APIレベルでのテストを実装できるようになったことです。以前はウェブUIのテストで躓いてしまうことが多かったのですが、今年はきちんと層を分けることで、テストを書きながら実装できるチームが増えました。
生成AI時代の衝撃
今年からCopilotやChatGPTが研修で使用可能になったことで、想像以上の変化が起きました。技術的な詰まりがほとんどなくなり、従来であれば技術サポートに頻繁に相談していた内容が、AI先生に聞けば解決してしまう。開発スピードは1-2週間分も向上し、特にフロントエンド開発ではAIがほぼノーコードでUI要素を生成してくれるようになりました。
興味深いのは、社内インフラなど企業固有の領域ではAIが対応できないため、従来通り社内担当者への相談が必要だったことです。AIが得意な領域と人間のサポートが必要な領域のバランスが、研修設計にも新たな視点をもたらしています。
受講生の一人が何気なく「ダークモードとライトモードの切り替え機能を作ってください」とAIにお願いしたところ、一瞬で実装されて「意味を聞いても仕方がない」と思ったというエピソードも印象的でした。
AI時代のコードリーディング革命
セッション後に、生成AIでコード生成すると中身を読まない人が出るので、許可していいか悩む、というご相談をいただきました。今年のケースだと、生成するばかりではなく、コードの理解や、エラーの理解に生成AIの手を借りていたようです。文字化けしてしまっているエラ〜メッセージも、生成AIは解読してくれます。そうしたこともアドバイスしながら、さまざまな実践的な使い方を体得してくれたのではないかと思います。
牛尾さんが「ディープコードリーディングのすすめ」で述べている「他人のPRを読んで100%理解する」ことの重要性を指摘しています。AIがある時代だからこそ「完璧に理解できる環境」を活用し、短期間で深い理解を得ることができるのです。
PBLの本質:探索能力の育成
私たちがPBLで最も重視しているのは、探索能力の育成です。従来の座学型研修では、特定の技術や手順を教えることはできても、「分からない状況でどう一歩目を踏み出すか」という能力は身につきません。
PBLでは、特定の技術ABCを教えるのではなく、AやBやCにたどり着く方法、そして組み合わせ方を体験的に学んでもらいます。これは転用可能な学習であり、配属後に違う技術に出会っても応用できる根本的な力です。
受講生からよく聞かれるのが「PBL終了後にSBL(座学型学習)をやりたかった」「座学型学習の重要性が分かった」という声です。これは反転学習の効果で、実際に困った体験をしてから学習することで、なぜその知識が必要なのかを実感として理解できるからです。
この現象は学習心理学の観点からも理にかなっています。人は抽象的な知識よりも、具体的な困りごとや課題から出発した学習の方が定着率が高いのです。PBLでプロダクト開発を体験した後に「あ、この場面でデザインパターンの知識があれば良かった」「データベース設計をもっと深く理解していれば効率的だった」という気づきが生まれ、その後の学習に対するモチベーションが格段に向上します。
また、チーム開発の過程で「自分が知らないことを適切に伝える技術」を身につけることも重要な成果です。多くの新入社員が「聞きたいことがあるけれど、何を聞けばいいかわからない」「そもそも何がわからないかがわからない」という状況に陥りがちです。PBLでは、このような状況が自然に発生し、コーチや先輩と一緒に「分からないことを言語化する」プロセスを経験できます。
さらに、実務に近い不確実性の高い環境を提供することで、新卒と企業のギャップを埋める効果もあります。学校では正解がある問題を解くことが多いのに対し、実務では正解が不明確で、試行錯誤しながら解決策を見つけていく必要があります。PBLではこの不確実性を意図的に組み込み、先生と生徒の関係を作らないことで、より現実に近い学習環境を提供しています。
アジャイルコーチだからできること
なぜアジャイルコーチが新卒研修をサポートするのか。それは私たちが「講師」ではなく「コーチ」として関わるからです。
分からない問題に対して、私たち自身も「分からない」と言いながら一緒に調べます。これは勇気がいることかもしれませんが、実際には「分かります」と言って答えられなかった時の方がよほど勇気が必要です。私たちは参加者だけでなく、運営チーム、組織全体をホールシステムとして見てサポートします。
新入社員が最も困るのは「分からないことをどう伝えるか」です。最近の新人は聞いてくれない、分からなくても黙っているという声をよく聞きますが、私たちの研修では、コーチが率先して「分からない」ことを表明し、一緒に探索することで、この重要なスキルを自然に身につけてもらいます。
竹葉さんからは、受講生が最初は一人でDiscordのボイスチャンネルに来て口で説明していたのが、画面共有を覚え、チーム全体で相談するようになり、最終的にはコーチを呼んで効率的に問題解決するようになる成長プロセスが紹介されました。
継続することの価値:地層効果
6年間継続してきたことで、教える側も「何でもこい」の状態に到達しました。どんな技術的な問題が起きても、慌てずに対応できる余裕ができています。
さらに重要なのは、研修を受けた先輩が事務局として参加してくれるようになったことです。毎年50人ずつアジャイル経験者が組織に蓄積され、同じ研修を受けた先輩後輩のコミュニケーションが円滑になります。部署を超えたつながりも生まれ、配属後の実務でも「あの時のPBLでコーチに言われましたね」という共通言語で話が通じるようになりました。
ある受講生からは「仕事をしていて、事業側の人がアジャイルやスクラムの話を全部理解していて、エンジニアをリスペクトしているから仕事がめちゃめちゃしやすかった」というフィードバックも得られています。これは組織全体への波及効果の表れです。
本質的な学習目標
私たちはアジャイルという枠を超えて、社会人として必要な汎用的スキルの習得を目指しています。対話をちゃんとすること、意見を言うこと、自分の頭で考えること、当事者になること、問題解決の仕方、そして社会参画の仕方。これらの根っこの部分は、配属先がアジャイル開発をしていなくても活用できる普遍的な価値を持っています。
短い期間ですが、ある程度そういった素養がある人材がそれなりの数でできてくるといいのではないかと考えています。配属先がアジャイル開発をしているかどうかに関係なく、一般的に活用できる職業人としての根っこの部分を大切にしています。
評価とフィードバック
企業からの評価は非常に高く、6年間継続できているのもその表れです。私たちは週1回のヘルスチェックを行っており、今年は「チームが楽しい」「しんどくない」という回答が大幅に増加しました。また、一日のデプロイ回数も従来の1回から4回まで向上し、スムーズに開発が回っていることがデータからも確認できています。
受講者の多くが翌年度の運営参加を希望してくれることも、研修の価値を示す重要な指標です。新卒の人たちが当事者として、自分の経験を次の世代につなげていくために声を上げてもらうことで、組織全体での好循環が生まれています。
セッション後のDiscussionで見えてきたもの
セッション後のDiscord上で活発な議論が続き、多くの深い指摘をいただきました。
「つらい思いをしたほうが後に記憶に残るみたいなことはないんでしょうか」
これに対して、つらい思いが人間を強くする面は確かにあるものの、研修として「果たしてその体験を設計できるのだろうか?」という点で疑問があると答えました。岩田聡さんの「クソゲーはなぜ生まれるのか?」の説明にあるように、作っている人たちが上手くなりすぎて「ヌルい」になってしまう問題があります。人為的に難しく調整した課題が実務に役立つ「よい学び」につながる線が見えていないため、人為的に難易度を上げることには否定的です。
「AIと一緒にやっていくとなんかわからんけど上手く動く、が起こりやすいのかなー」
これは重要な観点で、私たちは単純なコード生成だけでなく、コード分析を駆使してチーム全員で理解することに使ってもらうことを促していると説明しました。別の方からも「書いてもらうよりも読んでもらうほうが実用性が高い」というご指摘をいただき、多くのチームで共通の発見となっているようです。
「体験とインプットの繰り返しなのだな。本当にわからなくて知りたいことへのインプットなら吸収度合いも変わりそう」
まさにその通りで、体験は一人一人異なるため、講師から確実に手が回らない現実を踏まえ、自己組織化してもらう方が現実味があります。だからスクラムをマネジメントの仕組みとして取り入れたというロジックで考えています。
「それでも5年かかるんですね!」
組織文化の変化について、「組織文化の変化は計画できない」というFearless Change、リンダ・ライジング『Fearless Change アジャイルに効く アイデアを組織に広めるための48のパターン』(川口恭伸ほか訳、丸善出版、2014年)の教えを引用してお答えしました。興味深いことに、今回の登壇メンバーである川口は同書の日本語版翻訳者の一人でもあり、組織変革の実践者として長年この分野に携わっています。組織の変革は段階的で予測困難なプロセスであり、継続的な取り組みと忍耐が必要だということを改めて実感しています。
「アジャイル/スクラムを組織マネジメントや育成に活かすというのは、概念としてはわかっていたつもりでしたが自分の中ではイマイチ腹落ちしていなかった」
これこそが私たちの狙いで、概念的な理解から実践的な理解への橋渡しができたとすれば、セッションの意義があったと感じています。
今後の展望
生成AI時代の到来により、座学型研修のあり方も変化が必要になってくると考えています。一方的なインプット後のPBL実践ではなく、AIを活用した自律的な学習とチーム実践をよりシームレスにつなげる方法を模索していく予定です。
また、Agile PBL祭り2026(2026年3月21日、大崎ブライトコアホールで開催予定:https://agilepbl.org/ )というイベントも開催しており、学生主体ながら企業の新人研修チームも発表参加するなど、学校から企業へのシームレスな接続を目指した取り組みも行っています。スポンサー募集も始まりますので、ご興味のある方はぜひご連絡ください。
今回の登壇を通じて、6年間の継続的な取り組みの価値と、今年度の新たな改善による効果を多くの方に共有できました。PBLとアジャイル開発の組み合わせが、単なる技術研修を超えて、社会人としての基礎力育成に大きく貢献できることを改めて実感した45分間でした。
私たちはこのやり方を独占したいわけではまったくありません。できれば業界全体で、このスクラムコミュニティ全体で、みんなができるようにしたいというのが私たちの願いです。ぜひ必要なことがあれば何でも聞いてください。