眼のいい人

「あー、この人は眼がいいんだろうな」と思う人が

たまにいます。

視力がある、という意味じゃなくて、

センスがいいとか、冴えてるとか、そういう表現に

なるのかな。

同じようなものを作っても、パパっと、

よくまとまった、見た目に使い方が想像できる、

そんなソフトを書いたりする。

そういうのは見るところを見ていないと理解でき

ないわけで、そうなると自分でも表現できないわけで。

(視覚的論理的に「バカの壁」がある。…「バカの

 壁」読んでないけど意味あってるよね。)

上手にものをつくる人は、いいとこ見てるんだな、と思う。

06月27日にこの日記で書評を書いたIDEOの本では、

経験のある人/会社が作った、よくできた製品のことを、

「履きならした靴」と表現している。

製作者の洞察力で十分に履き慣らしてあるので、

新品をいきなりはいても靴ズレしない。…ということ

だそうだ。

経験も大きな要因でしょうね。

でも、経験はセンスと勉強の積み重ねでもある

わけなので、やっぱり眼がよくないと

うまい経験も積めないんだろうな。

眼がいいという感覚は、それなりに普遍的だろうか?

「この人は眼がいいな」とおもっても、単に自分と

感性が合う、趣向が似たような、そういう人なだけ、

ってこともあるのかもしれない。

その辺にもやっぱり「バカの壁」の罠があるわけで。

堤幸彦演出ドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」を

観ながら、ふとそんなことを考えました。

多くの人に受ける映像を作る人っていうのは、

眼がいいんでしょうね。

#あ、こういうのを道具眼というのだろうか。